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このブログは、私の復活物語になる。

アラフォーの派遣生活、私の東京での生活

平日は派遣で事務の仕事、休日は飲食店でバイトしている、と言うと、ほとんどの人が、休日ナシでよく働くね。と驚く。

お金の為、ではあるけれど、休日の飲食店でのバイトは、好きな仕事なので、楽しんでいた。


元来、一つの狭い場所にジッとしているのはあまり性分ではないらしい。


平日のパソコンを使う事務の仕事も、それなりに楽しんでいるけど、ずっと座りっぱなしの仕事と違って、動き回ったりお客様と話をしたり、五感を使うレストランの仕事は好きだ。


もともと、私は、学校を卒業した後、地元で生命保険会社に就職して、事務の仕事をしていた。


入社した時はまだバブルがはじけたばかりだったので、生活レベルでその事を実感する事はあまりなかったけれど、5年ほどすると、賞与カットとか人員削減などが身近な話題になり、このまま事務の仕事を続けていても、将来の見通しが立たないような気がして、特に何がしたいとかいう事もなかったのだが、退職をした。


今思えば、若かったなぁ、と、思うけど、結局、そのまま勤めていたとしても、やっぱりいつかは辞める事になっていたと、思う。


会社を辞めた後は、何する事もなく休暇を楽しんでいたが、もともと働くのが好きなのか、一週間もすると休暇に飽きてしまって、私はアルバイトをする事にした。


地元の、海の側のカジュアルイタリアンレストラン。


これが、初めての飲食店でのバイトだった。


初めての仕事だったのと、メンバーがみな20歳前後、と、若いのもあって、慣れるまでが大変だったが、すぐに仕事が大好きになった。

休日も、お店のスタッフで集まって新しく出来た店に行ったり、ヨットで離島に行き、バーベキューをしたり、24時間営業のファミレスで夜が明けるまでおしゃべりしたりしていた。


辞めた生命保険会社の同僚や先輩からも、よく、「楽しそうだよね。生き生きしてるよ。」と言われた。


結局、その頃から、前述の会社に契約社員として入社するまで、7-8年の間、平日は派遣で事務の仕事をして、夜や週末は、レストランで働く、という生活を続けていた。


そうして、派遣スタッフとして入ったその会社で、契約社員として入社する事になり、その二足わらじの生活に終止符を打った。


はずだった。


まさか、アラフォーで、しかも東京で、その生活に戻るなんて思ってもみなかった。

アラフォーの派遣生活、始まる。

東京での日本の大手企業での仕事で、何をやっていいのかサッパリ分からないまま、2年が過ぎようとしていた。

多くの人がそうだと思うけれど、自分が何かの役に立っているという実感を得られないのは、辛かった。

そのうち、業務縮小の気配が漂い始め、派遣社員の契約がどんどん切られ、組織編成が行われた。私が所属していた業務委託先の会社の社内も雰囲気がどんどん悪くなっていき、私は、「辞めろ」の風が吹いているのを感じた。

地域で幾つかの企業の事務職に着いたが、どんなに自分が頑張りたいと思っても、不向きな職場がある、という事は、経験で知っていた。そういう時は、意固地に頑張ったとしても、空回りするだけで、自分も辛いし、周りも迷惑なだけである。

頑張っても努力しても空回りしてしまう時、今まで順調に進んでいたのが歯車が合わなくなって来た時、そんな時は、環境を変える時だったり次のステップに進むような時だったりする。

環境を変えるのは勇気がいるが、意固地にそこにしがみつくより、思い切って離れてしまう方が、上手くいく事が多い。私の場合。

それを、私は、「辞めろ」の合図と呼んでいる。

そして、ちょっとした揉め事が起こって社内に味方はいないのだと察した時、決めた。


辞めなくては。すぐに。


そうして私は、それから一週間後には、有給休暇消化のために休みに入った。

何が、誰が、悪いわけでもない。ただ、私は私が居るべきではない場所に迷い込んでしまったのだ。周りも迷惑だったろうし、お荷物だったに違いない。


そして、私は出口を見付ける事が出来ないまま、崖から飛び降りたのだ。


大袈裟でもなんでもなく、本当に、あとは天に任せる、という気持ちで、エイヤッと崖から飛び降りるように、会社を辞めたのだ。先の事なんて、考えてる余裕なんてなかった。

それくらい、追い詰められていたのだ、と、今にして思う。


今、こんな状況でいてさえ、それでもなお、会社を辞めた事は全く後悔していない。


そして、その翌月から、私の、平日は派遣社員として事務の仕事をし、週末はレストランのホールスタッフとして働く、という、二足わらじの生活が始まった。


あの日。

徹夜して家に戻り、風呂に入ってから、また出勤するまだほの暗く寒い早朝、まだ交通量の少ない閑散とした通りを歩きながら、今までにない孤独感に押し潰されそうになりながらも、

最後の力を振り絞るかのように、


「私はこんな思いをするために東京に来たんじゃない。幸せになるために来たんだ。もう楽しい事しかしない。絶対に。」


と、その思いをぎゅーっと噛みしめるように誓ったのを昨日の事のように覚えているし、忘れない。


私はまだその思いを達成する途中にいるのだ。

アラフォーの東京生活、始まる。

せわしなく東京に引越しして、東京での生活が始まった。
仕事も私生活も環境も、全て、毎日が迷子状態だった。
いつも普通に手に入っていた生活用品が、一体どこに売っているのかさえ分からず、新宿駅で迷い、人ごみに疲れ、情けなくて、何度も泣きたくなった。
仕事も、地域では外資系の企業に出向し、プロジェクト全体が把握できる内容だったのに対して、東京では、大きな日本企業に出向し、大きな組織の中で働く事になり、私は自分が何をすれば良いのか、サッパリ分からなかった。大企業本社の把握出来ない部署の多さや人間関係にも、日本企業の独特の雰囲気にも全く馴染めなかった。
週末は、愛車でドライブして、気に入ったカフェでコーヒー片手に雑誌や本を読んで過ごしていた生活が、東京の人だらけの街をウロウロ巡るだけの生活に代わった。
たまに、海を見に行ったりしても、やっぱりそこは人だらけで、海も私の思う海ではなく、疲れるだけで、癒しも何も得られなかった。
東京の良さが、サッパリ分からなかった。
東京に住んでいる事に、何の楽しみも見出す事が出来なかった。
私は知らなかったのだ。
東京が、「どデカイ街」だという事を。
何の目的もなく、ただ徘徊するだけなら、東京は際限なくお金が浪費されるだけの街だ。
私はなんで東京にいるのだろう、と、
何度となく思った。
でも、信じていたのだ。
私が東京に来る事になったのは、絶対に何か意味があるはずだ、と。

債務整理以前 -始まり-

断れなかった。

仕事の業務量には波があり、その度に、人員の増減が繰り返し行われてきたのだ。地方で今後、業務が縮小していくだろう、というのは知っていた。

転勤を断れば、すぐに、とはいかなくても、今後いつクビになってもおかしくはなかった。

現に、一時期40名以上もいた私のプロジェクトチームは今は1名になってしまったようだ、と少し前に聞いた。

転勤するに当たり、引越ししたばかりの事、マンションの改装をした事を説明すると、マンションの解約費用と改装費は会社が負担してくれる事になった。その点はすごく恵まれていた、と、思う。

でも、その広いマンションに合わせて買った、暖房器や照明、カーテンなどは持って行けるはずもなく、買ったばかりの新品を、友人に譲ったり実家に置きに帰ったり、と、東京へ行くまでの一か月の僅かな時間は、瞬く間にばたばたと過ぎた。

幾つかホームウォーミングパーティを計画していたのが、急遽、お別れ会、に代わった。

引越しというのは、何かとお金がかかるものだ。増してや私は独り暮らしを始めたばかりで、家具や生活雑貨などを買い揃え、出費は嵩んでいた。

債務整理以前 -そして、突然の転勤-

半年程かけてやっと見つけた部屋は、築20年で、3LDKのうち、リビングダイニングと、納戸のような4畳ほどの部屋以外の2部屋は、畳だった。

2部屋とも畳は使い難いな、と、思って、契約の時に、大家さんにフローリングへの改装の許可を貰った。もちろん、改装費は自費だ。

そして、年末。

フローリングの改装工事も終え、無事に引っ越しを終えた私は、40歳の記念に開催された同窓会に出席して、20年以上ぶりに学生時代の友人、知人達に再会をした。学生の頃の面影を残しながらも、皆、それぞれの生き方をしていて、懐かしく思いながらも、確かに時間は流れているのだと、妙に実感した日だった。

何か、今までになく、新しいスタートを切る気分で、新年を迎えた。

実は、これが始まりの前兆だとも予想だに出来ずに。

そうして、新年も明けて、会社に出勤した私に、転勤が告げられたのだった。

来月から、東京に行って欲しい。と。

債務整理以前 -始まりの始まり-

私の友人の家での独り暮らしが始まった。

家具や最低限の生活用品はそろっていたので、6本入りの小さなワインセラーと、大切に育てていたぬか床と観葉植物、あとは、身の回りの着替えなどを持っていくだけで、新生活はすぐに始める事が出来た。

海の側の穏やかな静かな街での自由な独り暮らしは、思った以上に快適だった。

家が散らかる事もなく、私の嫌いなテレビの雑音もなく、誰にも左右される事なく、穏やかに暮らした。

ただ、友人宅というのもあって、やはり、少し気を使った。あと、勤め先のオフィスまでが遠かったのもあり、しばらくすると、私は、部屋探しを始めた。

部屋探しをした事のある人なら分かると、思う。自分の希望通りの部屋は、なかなか見つからないものだ。

それでも、半年程かかって、ようやく念願の、南向きでシステムキッチン付きの、明るく風通しの良い部屋を見つける事ができた。

債務整理以前 -予兆-

東京に転勤になる、半年前。

私はそれまで、実家で父と2人で暮らしていた。母は、私が学生の時に亡くなり、私が家事をこなしていた。

私の実家は、日当たりも風通しも良く、木が沢山植わっていて、静かで、交通の便も良くて、私はそんな環境が大好きだったし、料理は好きで、家事は得意だったので、実家を出て独り暮らしを始める気はさらさら無かった。

父は長い間、サラリーマンとして働いていたが、母が亡くなってしばらくしてから、知人と小さな会社を始めた。(先に言っておくと、その会社の経営が苦しくなって、借金が、、、という話では、ない。)

その父が、体力的にも辛いと言って仕事を辞めたのは、74歳の時だ。

ここまで書くと、なんとなく、察しがつくのではなかろうか。

父は、ずっと家に居るようになり、家が散らかり始めた。父は、片付けなど、得意ではない。捨てることが出来ず、請求書でもなんでもとりあえず、取っておくタイプだ。

反対に、私は捨て魔。ゴミが出た片っ端から捨てていく。モノは極力増やしたくない。

父は、日中暇になったのもあるのだろう。マッサージチェアやらインテリア小物やら、何かしらものを買ってくるようになって、家が雑然とし始めた。

ケンカ、と言っても、私が一方的に怒るだけなのだけど、その機会が増えて、私はもうとうとう我慢が出来なくなってしまった。

独り暮らしを考え始めた時、友人が、空き家にしている一軒家に住んでみないか、と、提案してくれた。家も、誰も住んでいないと荒んでいくし、住んでくれたら助かる、という事で、私は一も二もなくその話を受けた。

今時代でいうと、「定年別居」と言うんだろうか。