アラフォーの派遣生活、「借金返済、相談」。
「これは、給与差押えですから。金額の相談なんて出来ないですよっ。」
ピシャッと撥ね付けるように、役所の担当者は言った。
一瞬頭の中が真っ白になった。
本当に一瞬目の前が白くなったので、
うわ、思考が停止すると、本当に白くなるんだ、とか思いながら
もうダメだ。どうなるんだろう、私。
と呆然とした。
契約社員として勤めていた会社で命じられた突然の東京転勤。
東京の生活にも仕事にも馴染めず、2年後に会社を辞めて、平日は事務の派遣社員として、週末はレストランのホールスタッフとして働いていたけれど、住民税を払う余裕がなくて、滞納していた。
1度、役所に出向いて分納の処理をしてもらったのだけど、それでも払えず、そのままにしていたのだった。
その、税金の差押えの通知が来て、あまりに高額だったので、ひと月の負担額を少しでも軽くして貰えないか、役所に相談の電話をしたのだ。
経済状況を説明したが、そんなのは関係ないと、取り付く島もなかった。
あまりのむげな対応に、ムッとしつつ、でも、その時何故か、私は、「私には払える。払える状態になったから、通知が来たのだ。」と、根拠もなく、確信したのだ。
そして、電話口の担当者に同情すらしてしまった。
こんな取り立て屋みたいな仕事、必要とはいえ、どんなに給料が良くても、私なら、したくない。
「分かりました。」
そう言って電話を切ったものの、打てる手は全て打った後で、もう、私にはどうすれば良いのか、分からなかった。
悲しい、とか、ツラい、とかいう感情さえ、もう感じる事も出来ず、ただただ呆然と途方にくれた。
浮浪者になる事も、もちろん考えた。
このまま家を出て、さあ、どうする?
街をあてどもなく彷徨う?
家賃が支払われなければ、家族に連絡が行き、家族が滞納された家賃や税金を肩代わりし、私のアパートの片付けをする事になるのは容易に想像出来た。
家族はどんな気持ちがするだろうか。
寒空をあてどもなく彷徨うのも、今まで助けてくれた家族に迷惑をかけるのも、心の底から嫌だった。
せめて家族に迷惑をかけない方法は何かないかと思った。
でも、どうすれば良いのか分からず、途方に暮れ、呆然と日々を過ごした。
ただ、途方に暮れながらも、ここまで来たら、命が実際に絶たれるその瞬間まで、とことん生きて、生きて、生き抜いてやろう、と、思った。
「その瞬間」はまだ来ていない。
「その瞬間」を、自分の目でみてやる。
「その瞬間」が目の前にやってきて、自分自身で体験する、その瞬間まで、生き貫いてやる。と、腹を決めた。
何かが私の中で、突き抜けた。
私の中で、「恐怖」を「挑戦」に変えた瞬間だった。
思えば、その時、私はようやく、他の誰のためでもない、自分の、私自身の人生を生きる覚悟が、自分の人生に責任を持つ覚悟が、やっと出来たのかもしれない。
どうにかして生き長らえる方法を、孤独の中、暗闇の中を、手探りで探し続けた。
そうして、数日たったある夜、私はネットで、こう、検索した。
「借金返済、相談」
アラフォーの派遣生活、まさかの給料差押え。
そうこうしている内に、本当にまずい状況になってきた。
どのカードも限度額に達してきていた。
本屋で「お金持ちになる法則」の類の本を読んで、「どうにかなるさ。」なんて、気を紛らわしている場合ではなくなってきた。
私は支出の整理を始め、止めれるものは止め、家賃の安いアパートと、時給の良い仕事を探し始めた。
年末前に、ギリギリ予算内で、しかも見事に私の希望条件にハマったアパート物件を見つける事が出来、即契約した。
身内に引越し費用のお金を借り、何とか引越し目処が立ったのと同時に、時給の良い仕事に就く事が決まった。
そうして、なんとか月に9万円の予算を捻出する事が出来たのだった。
これで、何とか乗り切れるかも。
そう思えたのも束の間だった。
年明け、新しい職場にも慣れてきた頃、私の携帯に派遣会社から連絡が入った。
役所から、私の給与を差押えするように通知が来ている。
という内容だった。
アラフォーの派遣生活、休んでる余裕なんてないのに、入院。
派遣とバイトの二足わらじの生活が始まって1年が過ぎた。
事務の派遣の仕事は、半年ほど続けた医療機器メーカーの仕事を辞めて、やはり外資系の出版社に勤務し始めたところだった。
医療機器メーカーはとても良い会社だったけど、上司が辞めたり、コロコロ代わったり、派遣としては安心して働けない環境だと感じての転職だった。
もっと地道に辛抱して働いたら、なんて避難を受けそうだけど、もう私は、決めたのだ。
自分らしく生きる事を最優先にするのだ、と。
それで痛い目にあったとしても、結局人生はトライ&エラーを繰り返しだ。それを受け入れつつ進むしかない、と、開き直ってしまった。
そして、この頃から、そろそろ経済的にマズイな、と徐々に危機感を感じ始めて、家賃の安いアパートを探したり、食費を5円、10円単位で切り詰めるようにした。
そうしたら。
なんと、健康だけが取り柄で、ほとんど風邪もひかず、今まで大した病気にもかかった事のない私が、なんと盲腸で入院する羽目になってしまったのだ。
結局、週末を含めた4日間を入院する事になり、稼がなきゃいけない、休んでる暇なんてないという、この時に、仕事を休む事になってしまった。それに加えて、入院費用、6万円の出費!!
5円、10円単位の生活をしていた私には相当な痛手だ。
薬で散らしてすぐに退院出来たのは不幸中の幸いだったが、あまりの出来事に、すっかりバカバカしくなって、
やめた。
と、思った。
自分に似合わない事をすれば、歪みが生じるのだ、と、この時私は実感した。
薄々感じてはいたけど、どうやら私は、食べ物に関して、無理をしたりガマンしたり、負荷をかけてはいけないらしい。
そして、この時改めて、私は、自分が人生で何を大切にしているのか、について、気づいた。
多分それは、天職か生業に近いものだと思う。
アラフォーの派遣生活、債務整理直前。
そんなこんなあって、エイヤッと、会社を辞めた後、私はすぐにファーストフードの店やホテルのラウンジで働いたりしながら、事務の派遣の仕事を探した。ほどなく、外資系の会社の事務の仕事が決まった。
久々の外資系企業は、居心地が良かった。
私の経験からすると、日本企業と外資系企業の雰囲気は、違う。外資系の方が個性ある人が多く、それぞれその自分の個性を発揮して仕事をしている気がする。一概には言えないけど。そして、私には外資系の方が性に合っていると思う。
その後しばらくしてから、私は家の近くに素敵なフレンチレストランを見つけ、週末はその店で働く事になった。
丸一日休み、ということはほとんどなく、ほぼ毎日働いていたが、生活はギリギリだった。
いや、ほんの少しずつマイナスだったのだ。日々働いて、お金はとりあえず返金出来ていたから、それで良いと思っていた。
あまり考えまい、としていたのだと思う。
どうにかなると、思っていた。
何より、休みはなくても、自分らしく働ける事の幸せをしみじみと実感しながら、これからの生き方を模索するのに必死だった。
アラフォーの派遣生活、私の東京での生活
平日は派遣で事務の仕事、休日は飲食店でバイトしている、と言うと、ほとんどの人が、休日ナシでよく働くね。と驚く。
お金の為、ではあるけれど、休日の飲食店でのバイトは、好きな仕事なので、楽しんでいた。
元来、一つの狭い場所にジッとしているのはあまり性分ではないらしい。
平日のパソコンを使う事務の仕事も、それなりに楽しんでいるけど、ずっと座りっぱなしの仕事と違って、動き回ったりお客様と話をしたり、五感を使うレストランの仕事は好きだ。
もともと、私は、学校を卒業した後、地元で生命保険会社に就職して、事務の仕事をしていた。
入社した時はまだバブルがはじけたばかりだったので、生活レベルでその事を実感する事はあまりなかったけれど、5年ほどすると、賞与カットとか人員削減などが身近な話題になり、このまま事務の仕事を続けていても、将来の見通しが立たないような気がして、特に何がしたいとかいう事もなかったのだが、退職をした。
今思えば、若かったなぁ、と、思うけど、結局、そのまま勤めていたとしても、やっぱりいつかは辞める事になっていたと、思う。
会社を辞めた後は、何する事もなく休暇を楽しんでいたが、もともと働くのが好きなのか、一週間もすると休暇に飽きてしまって、私はアルバイトをする事にした。
地元の、海の側のカジュアルイタリアンレストラン。
これが、初めての飲食店でのバイトだった。
初めての仕事だったのと、メンバーがみな20歳前後、と、若いのもあって、慣れるまでが大変だったが、すぐに仕事が大好きになった。
休日も、お店のスタッフで集まって新しく出来た店に行ったり、ヨットで離島に行き、バーベキューをしたり、24時間営業のファミレスで夜が明けるまでおしゃべりしたりしていた。
辞めた生命保険会社の同僚や先輩からも、よく、「楽しそうだよね。生き生きしてるよ。」と言われた。
結局、その頃から、前述の会社に契約社員として入社するまで、7-8年の間、平日は派遣で事務の仕事をして、夜や週末は、レストランで働く、という生活を続けていた。
そうして、派遣スタッフとして入ったその会社で、契約社員として入社する事になり、その二足わらじの生活に終止符を打った。
はずだった。
まさか、アラフォーで、しかも東京で、その生活に戻るなんて思ってもみなかった。
アラフォーの派遣生活、始まる。
東京での日本の大手企業での仕事で、何をやっていいのかサッパリ分からないまま、2年が過ぎようとしていた。
多くの人がそうだと思うけれど、自分が何かの役に立っているという実感を得られないのは、辛かった。
そのうち、業務縮小の気配が漂い始め、派遣社員の契約がどんどん切られ、組織編成が行われた。私が所属していた業務委託先の会社の社内も雰囲気がどんどん悪くなっていき、私は、「辞めろ」の風が吹いているのを感じた。
地域で幾つかの企業の事務職に着いたが、どんなに自分が頑張りたいと思っても、不向きな職場がある、という事は、経験で知っていた。そういう時は、意固地に頑張ったとしても、空回りするだけで、自分も辛いし、周りも迷惑なだけである。
頑張っても努力しても空回りしてしまう時、今まで順調に進んでいたのが歯車が合わなくなって来た時、そんな時は、環境を変える時だったり次のステップに進むような時だったりする。
環境を変えるのは勇気がいるが、意固地にそこにしがみつくより、思い切って離れてしまう方が、上手くいく事が多い。私の場合。
それを、私は、「辞めろ」の合図と呼んでいる。
そして、ちょっとした揉め事が起こって社内に味方はいないのだと察した時、決めた。
辞めなくては。すぐに。
そうして私は、それから一週間後には、有給休暇消化のために休みに入った。
何が、誰が、悪いわけでもない。ただ、私は私が居るべきではない場所に迷い込んでしまったのだ。周りも迷惑だったろうし、お荷物だったに違いない。
そして、私は出口を見付ける事が出来ないまま、崖から飛び降りたのだ。
大袈裟でもなんでもなく、本当に、あとは天に任せる、という気持ちで、エイヤッと崖から飛び降りるように、会社を辞めたのだ。先の事なんて、考えてる余裕なんてなかった。
それくらい、追い詰められていたのだ、と、今にして思う。
今、こんな状況でいてさえ、それでもなお、会社を辞めた事は全く後悔していない。
そして、その翌月から、私の、平日は派遣社員として事務の仕事をし、週末はレストランのホールスタッフとして働く、という、二足わらじの生活が始まった。
あの日。
徹夜して家に戻り、風呂に入ってから、また出勤するまだほの暗く寒い早朝、まだ交通量の少ない閑散とした通りを歩きながら、今までにない孤独感に押し潰されそうになりながらも、
最後の力を振り絞るかのように、
「私はこんな思いをするために東京に来たんじゃない。幸せになるために来たんだ。もう楽しい事しかしない。絶対に。」
と、その思いをぎゅーっと噛みしめるように誓ったのを昨日の事のように覚えているし、忘れない。
私はまだその思いを達成する途中にいるのだ。