#アラフォー #おひとり #派遣社員 #給与差押え #債務整理中

このブログは、私の復活物語になる。

アラフォーの派遣生活、まさかの給料差押え。

そうこうしている内に、本当にまずい状況になってきた。

どのカードも限度額に達してきていた。

本屋で「お金持ちになる法則」の類の本を読んで、「どうにかなるさ。」なんて、気を紛らわしている場合ではなくなってきた。

私は支出の整理を始め、止めれるものは止め、家賃の安いアパートと、時給の良い仕事を探し始めた。

年末前に、ギリギリ予算内で、しかも見事に私の希望条件にハマったアパート物件を見つける事が出来、即契約した。

身内に引越し費用のお金を借り、何とか引越し目処が立ったのと同時に、時給の良い仕事に就く事が決まった。

そうして、なんとか月に9万円の予算を捻出する事が出来たのだった。


これで、何とか乗り切れるかも。


そう思えたのも束の間だった。

年明け、新しい職場にも慣れてきた頃、私の携帯に派遣会社から連絡が入った。


役所から、私の給与を差押えするように通知が来ている。

という内容だった。


アラフォーの派遣生活、休んでる余裕なんてないのに、入院。

派遣とバイトの二足わらじの生活が始まって1年が過ぎた。

事務の派遣の仕事は、半年ほど続けた医療機器メーカーの仕事を辞めて、やはり外資系の出版社に勤務し始めたところだった。

医療機器メーカーはとても良い会社だったけど、上司が辞めたり、コロコロ代わったり、派遣としては安心して働けない環境だと感じての転職だった。

もっと地道に辛抱して働いたら、なんて避難を受けそうだけど、もう私は、決めたのだ。

自分らしく生きる事を最優先にするのだ、と。

それで痛い目にあったとしても、結局人生はトライ&エラーを繰り返しだ。それを受け入れつつ進むしかない、と、開き直ってしまった。


そして、この頃から、そろそろ経済的にマズイな、と徐々に危機感を感じ始めて、家賃の安いアパートを探したり、食費を5円、10円単位で切り詰めるようにした。

そうしたら。

なんと、健康だけが取り柄で、ほとんど風邪もひかず、今まで大した病気にもかかった事のない私が、なんと盲腸で入院する羽目になってしまったのだ。

結局、週末を含めた4日間を入院する事になり、稼がなきゃいけない、休んでる暇なんてないという、この時に、仕事を休む事になってしまった。それに加えて、入院費用、6万円の出費!!

5円、10円単位の生活をしていた私には相当な痛手だ。

薬で散らしてすぐに退院出来たのは不幸中の幸いだったが、あまりの出来事に、すっかりバカバカしくなって、

やめた。

と、思った。

自分に似合わない事をすれば、歪みが生じるのだ、と、この時私は実感した。

薄々感じてはいたけど、どうやら私は、食べ物に関して、無理をしたりガマンしたり、負荷をかけてはいけないらしい。

そして、この時改めて、私は、自分が人生で何を大切にしているのか、について、気づいた。

多分それは、天職か生業に近いものだと思う。




アラフォーの派遣生活、債務整理直前。

そんなこんなあって、エイヤッと、会社を辞めた後、私はすぐにファーストフードの店やホテルのラウンジで働いたりしながら、事務の派遣の仕事を探した。ほどなく、外資系の会社の事務の仕事が決まった。

久々の外資系企業は、居心地が良かった。

私の経験からすると、日本企業と外資系企業の雰囲気は、違う。外資系の方が個性ある人が多く、それぞれその自分の個性を発揮して仕事をしている気がする。一概には言えないけど。そして、私には外資系の方が性に合っていると思う。

その後しばらくしてから、私は家の近くに素敵なフレンチレストランを見つけ、週末はその店で働く事になった。

丸一日休み、ということはほとんどなく、ほぼ毎日働いていたが、生活はギリギリだった。

いや、ほんの少しずつマイナスだったのだ。日々働いて、お金はとりあえず返金出来ていたから、それで良いと思っていた。

あまり考えまい、としていたのだと思う。

どうにかなると、思っていた。

何より、休みはなくても、自分らしく働ける事の幸せをしみじみと実感しながら、これからの生き方を模索するのに必死だった。


アラフォーの派遣生活、私の東京での生活

平日は派遣で事務の仕事、休日は飲食店でバイトしている、と言うと、ほとんどの人が、休日ナシでよく働くね。と驚く。

お金の為、ではあるけれど、休日の飲食店でのバイトは、好きな仕事なので、楽しんでいた。平日のパソコンを使う事務の仕事も、それなりに楽しんでいるけど、ずっと座りっぱなしの仕事と違って、動き回ったりお客様と話をしたり、五感を使うレストランの仕事は好きだ。

もともと、私は、学校を卒業した後、地元で生命保険会社に就職して、事務の仕事をしていた。入社した時はまだバブルがはじけたばかりだったので、生活レベルでその事を実感する事はあまりなかったけれど、さすがに5年ほどすると、賞与カットとか人員削減などが身近な話題になり、このまま事務の仕事を続けていても、将来の見通しが立たないような気がして、特に何がしたいとかいう事もなかったのだが、退職をした。

今思えば、若かったなぁ、と、思うけど、結局、そのまま勤めていたとしても、やっぱりいつかは辞める事になっていたと、思う。

会社を辞めた後は、何する事もなく休暇を楽しんでいたが、もともと働くのが好きなのか、一週間もすると休暇に飽きてしまって、私はアルバイトをする事にした。

地元の、海の側のカジュアルイタリアンレストラン。

これが、初めての飲食店でのバイトだった。

初めての仕事だったのと、メンバーがみなハタチ前後と若いのもあって、慣れるまでが大変だったが、すぐに仕事が大好きになった。休日も、お店のスタッフで集まって新しく出来た店に行ったり、ヨットで離島に行き、バーベキューをしたり、24時間営業のファミレスで夜が明けるまでダベったりしていた。

辞めた生命保険会社の同僚や先輩からも、よく、「楽しそうだよね。生き生きしてるよ。」と言われた。

結局、その頃から、前述の会社に契約社員として入社するまで、7-8年の間、平日は派遣で事務の仕事をして、夜や週末は、レストランで働く、という生活を続けていた。

そうして、派遣スタッフとして入った会社で契約社員として入社する事になり、その二足わらじの生活に終止符を打った。


はずだった。


まさか、アラフォーで、しかも東京で、その生活に戻るなんて思ってもみなかった。

アラフォーの派遣生活、始まる。

東京での日本の大手企業での仕事で、何をやっていいのかサッパリ分からないまま、2年が過ぎようとしていた。

多くの人がそうだと思うけれど、自分が何かの役に立っているという実感を得られないのは、辛かった。

そのうち、業務縮小の気配が漂い始め、派遣社員の契約がどんどん切られ、組織編成が行われた。私が所属していた業務委託先の会社の社内も雰囲気がどんどん悪くなっていき、私は、「辞めろ」の風が吹いているのを感じた。

地域で幾つかの企業の事務職に着いたが、どんなに自分が頑張りたいと思っても、不向きな職場がある、という事は、経験で知っていた。そういう時は、意固地に頑張ったとしても、空回りするだけで、自分も辛いし、周りも迷惑なだけである。

頑張っても努力しても空回りしてしまう時、今まで順調に進んでいたのが歯車が合わなくなって来た時、そんな時は、環境を変える時だったり次のステップに進むような時だったりする。

環境を変えるのは勇気がいるが、意固地にそこにしがみつくより、思い切って離れてしまう方が、上手くいく事が多い。私の場合。

それを、私は、「辞めろ」の合図と呼んでいる。

そして、ちょっとした揉め事が起こって社内に味方はいないと分かった時、決めた。

辞めなくては。すぐに。

そうして私は、それから一週間後には、有給休暇消化のために休みに入った。

何が、誰が、悪いわけでもない。ただ、私は私が居るべきではない場所に迷い込んでしまったのだ。周りも迷惑だったろうし、お荷物だったに違いない。

そして、私は出口を見付ける事が出来ないまま、崖から飛び降りたのだ。

大袈裟でもなんでもなく、本当に、あとは天に任せる、という気持ちで、エイヤッと崖から飛び降りるように、会社を辞めたのだ。先の事なんて、考えてる余裕なんてなかった。

それくらい、追い詰められていたのだ、と、今にして思う。

今、こんな状況でいてさえ、それでもなお、会社を辞めた事は全く後悔していない。

そして、その翌月から、私の、平日は派遣社員として事務の仕事をし、週末はレストランのホールスタッフとして働く、という、二足わらじの生活が始まった。


あの、徹夜して家に戻り、風呂に入ってから、また出勤するまだほの暗く寒い早朝、まだ交通量の少ない閑散とした通りを歩きながら、「私はこんな思いをするために東京に来たんじゃない。幸せになるために来たんだ。もう楽しい事しかしない。絶対に。」と、その思いをぎゅーっと噛みしめるように誓ったのを昨日のように覚えているし、忘れない。

私はまだその思いを達成する途中にいるのだ。

アラフォーの東京生活、始まる。

せわしなく東京に引越しして、東京での生活が始まった。
仕事も私生活も環境も、全て、毎日が迷子状態だった。
いつも普通に手に入っていた生活用品が、一体どこに売っているのかさえ分からず、新宿駅で迷い、人ごみに疲れ、情けなくて、何度も泣きたくなった。
仕事も、地域では外資系の企業に出向し、プロジェクト全体が把握できる内容だったのに対して、東京では、大きな日本企業に出向し、大きな組織の中で働く事になり、私は自分が何をすれば良いのか、サッパリ分からなかった。大企業本社の把握出来ない部署の多さや人間関係にも、日本企業の独特の雰囲気にも全く馴染めなかった。
週末は、愛車でドライブして、気に入ったカフェでコーヒー片手に雑誌や本を読んで過ごしていた生活が、東京の人だらけの街をウロウロ巡るだけの生活に代わった。
たまに、海を見に行ったりしても、やっぱりそこは人だらけで、海も私の思う海ではなく、疲れるだけで、癒しも何も得られなかった。
東京の良さが、サッパリ分からなかった。
東京に住んでいる事に、何の楽しみも見出す事が出来なかった。
私は知らなかったのだ。
東京が、「どデカイ街」だという事を。
何の目的もなく、ただ徘徊するだけなら、東京は際限なくお金が浪費されるだけの街だ。
私はなんで東京にいるのだろう、と、
何度となく思った。
でも、信じていたのだ。
私が東京に来る事になったのは、絶対に何か意味があるはずだ、と。

債務整理以前 -始まり-

断れなかった。

仕事の業務量には波があり、その度に、人員の増減が繰り返し行われてきたのだ。地方で今後、業務が縮小していくだろう、というのは知っていた。

転勤を断れば、すぐに、とはいかなくても、今後いつクビになってもおかしくはなかった。

現に、一時期40名以上もいた私のプロジェクトチームは今は1名になってしまったようだ、と少し前に聞いた。

転勤するに当たり、引越ししたばかりの事、マンションの改装をした事を説明すると、マンションの解約費用と改装費は会社が負担してくれる事になった。その点はすごく恵まれていた、と、思う。

でも、その広いマンションに合わせて買った、暖房器や照明、カーテンなどは持って行けるはずもなく、買ったばかりの新品を、友人に譲ったり実家に置きに帰ったり、と、東京へ行くまでの一か月の僅かな時間は、瞬く間にばたばたと過ぎた。

幾つかホームウォーミングパーティを計画していたのが、急遽、お別れ会、に代わった。

引越しというのは、何かとお金がかかるものだ。増してや私は独り暮らしを始めたばかりで、家具や生活雑貨などを買い揃え、出費は嵩んでいた。